新サイト稼働

 去年CRH380A乗車記だけ載せて仮設状態だった新サイト「Rail Planet」ですが、このたび本格始動しました。

 新サイト「Rail Planet」はこちら

 Rail Planetでは基本的に海外の鉄道ニュースを主に取り扱っていきます。それ以外は引き続きここも使っていく予定です。さてどれだけ更新し続けられるか?というわけで、「Rail Planet」よろしくお願いします。

中国高速鉄道事故覚え書き

 ご無沙汰しております。
 23日に発生した中国浙江省での高速鉄道事故後、こんなに放置しているにも関わらずこのブログのアクセス数が連日過去最多です。過去に書いた中国の高速鉄道関連の記事や、新サイトに載せたCRH380A乗車記へのリンクがあるからでしょうか。しかし過去最多アクセスがこんな悲惨な事故が引き金になるとは…。
 上記の乗車記の最後には、中国高速鉄道の今後の懸念として「ただし、開業後十数年間大規模トラブルを起こさず、クオリティを維持できるなら…」と書いたのですが、あまりにも早くこんな事態になり非常に残念です。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

 ちょっと時間がないので覚え書き程度ですが、以下に自分が気になっている点など。

  • 車両

 報道を見ていると、未だに当局は正式発表してないんですかね。情報を整理。

・突っ込まれた方(D3115次:杭州発福州南行き)
 CRH1B(CRH1-046B編成)。ボンバルディア+南車四方(BST)製造。ボンバルディアは本社がカナダなので、報道では「カナダの技術で〜」という記述が多いですが、車両自体は同社がスウェーデン向けに製造した「Regina」がベースです(ボンバルディア社の「Regina」解説ページはこちら)。ボンバルって各国のメーカーを買収合併して大きくなった企業だしReginaは欧州の工場で製造しただろうから「カナダの」と言われると多少の違和感がなくもない。いや間違っちゃあいないですが。

・突っ込んだ方(D301次:北京南発福州行き)
 CRH2E(CRH2-139E編成)。南車四方製造。「はやて」E2-1000番代ベースのCRH2の寝台タイプ。ちなみに登場時の南車の情報によれば車内照明には大々的にLEDを使っているそうで、まあその辺が「独自開発」といいたいんでしょうか。

  • 信号システム

 中国の高速鉄道は、パクリ新幹線で知られる通り車両は日本(川重)・シーメンスボンバルディアアルストムと各国の技術を揃えて(パクって)いますが、信号・軌道系統は基本的にヨーロッパ由来のものが目立ちます。スラブ軌道はドイツのRheda2000とかをベースに何種類か採用して(京津高鉄は別のドイツ系技術)国産化しているようだし、信号技術はヨーロッパのERTMSがベースです。特に最高速度350km/h対応の路線は、速度指示とかの地上―列車間通信に無線(第2世代携帯電話GSMと同じ電波方式で、鉄道用に改良したGMS-R)を使った、ヨーロッパの高速新線などで採用が進む「ETCSレベル2」準拠の「CTCS-3」を使っています*1。 まあ、自分が上海〜杭州間乗ったときは、運転台に表示されてる指示速度は350km/hなのに、355km/hで走っててブレーキ作動とかしなかったですけどね…。

 探しても情報が見つからないんですが、当該路線は最高速度250km/hなので、これより一段階下の「CTCS-2」を使っているんじゃないでしょうか。CTCS2については探してみるとこんな資料(pdf)がありましたが、要するにGSM-Rによる通信機能はなしで、軌道回路と地上子と車上設備とコントロールセンターで構成され、というようなことが書いてあるので、ATS-Pに近いものと想像。どこらへんまでが中国独自技術なんでしょうか。あと、CTCS2の車上装置は中国と合弁で日立が170編成分を造っていますね(日立の海外事業プレゼン資料(pdf、32ページ)。当該車両の車上装置はどうだったんでしょうか。

 報道によれば後続列車は先行列車が停車しているのを知らずに突っ込んだようです。運転士が非常ブレーキをかけた、という話もあります。「落雷が原因」で片付けられそうな気配もありますが、落雷しようが何しようが、故障したら「列車がその区間に存在する(在線)」のを示すのが軌道回路の基本のはずなので、先の区間が列車で埋まっていれば「赤信号」の状態になるはず。自動停止装置が故障云々の前に、基本的な信号すら壊れていたんでしょうか?日本で追突事故っていうと、ここ20年くらいは1997年の東海道線沼津の事故とか、だいたい無閉塞運転中ですよね。

 ちなみにこれで思い出したのは2年前にワシントンDCの地下鉄であった追突事故で、この事故では同線は自動運転にもかかわらず軌道回路故障で先行列車が検出できなくなっていて、後続列車がフルスピードで(運転士は非常ブレーキを操作)突っ込んでいます。海外の鉄道は軌道回路の信頼性がいまいち?

 個人的には、何気にヨーロッパの信号技術関連の人たちはけっこう気をもんでるんじゃないかと思います。なにしろ彼らは「中国は欧州信号システムの仲間だよ!」って認めちゃってるし(pdf)。欧州の機関が原因究明に協力するような動きがあればと思いますが、中国だからなあ…。

 とにかくこの事故は信号システムに焦点が絞られてきています。しっかり解明して頂きたいです。

*1:ETCS level2=固定閉塞用。列車の位置検知はふつうに軌道回路。車載コンピュータは無電源の地上子から位置情報(や、カーブとか元々の速度制限などのマーカー)を取得して、プログラムに基づき制御。ATC信号みたいな速度指示を送ってくるのがGSM-Rの電波。ということだと思います…。あってるかな

これからの屋代線の話をしよう。〜vol.2:のって考えてみた〜

 引き続き屋代線です。
 今までは漫然と、昼間は客少ないなあ、とか、夕方は高校生が乗ってるな、という程度にしか乗客の流れというのを認識してなかったのですが、調べ始めると実際どういう風に利用されているのか気になります。というわけで、どんな人たちがどのように乗っているのか観察しながら、朝と夕方の列車に乗ってみました。

  • 2月某日、朝下り〜須坂7:54発409列車に乗る〜

 朝の下り4本目。松代着8:17、屋代着8:39と、時間帯的に通学利用で賑わっているのでは、と思って乗ってみました。この日は雨だったので、普段よりやや利用者は多そうです。

 長野6:49発の信州中野行きで須坂駅には7:14に到着。409列車は須坂7:26着404列車の折返しなので、まだ入線していない。長野行きホームには上り列車を待つ乗客が続々やってくるが、同じホームの反対側で屋代線の列車を待つ客は0人。自分の乗ってきた下り列車からの乗り換えも0人だった。

 7:26 404列車が1両に数人の立客がいる状態で到着。列車の定員(1両120人、座席定員48人)を考えると、座席は定員どおりには座っていないとしても80人程度は確実に乗っていることになる。想像していたよりもかなり多い。降りた乗客は多くが長野線に乗り換えるようだ。
 降りない客も数人いる。どうやら7:39発の下り列車を車内で待っているらしい。他にも待合室代わりに使っている人がちらほら。ホームに待合室造ったほうがいいかも?

 7:30 長野行き普通が到着。乗り換え客は0。
 7:39 信州中野行き普通が到着。乗り換え客2人。
 7:42 長野行き普通が到着。乗り換え客1人。
 7:52 長野行き特急「スノーモンキー」が到着。乗り換え客0人。

 「やべえ切符買ってねえよ、バスみたいな運賃表示あるけどよ、どうすんだろ」。男子高校生が車内で会った友人に聞いている。恐らく乗り換えで、須坂までの切符か定期は持っているのだろう。「あんま乗ったことねえから知らないんだけどさ」。松代駅が最寄りの松代高校は生徒613人のうち定期券利用者は約50人*1、アンケートで「利用する」と答えたのは586人中156人という*2
 

 7:54、定刻通り発車。発車時の乗客数は自分を除いて19人。長野線から乗り換えるより須坂駅から屋代線だけを利用する人が多いようだ。

 7:58 井上で1人乗車、1人降車。
 8:01 綿内で6人乗車、2人降車。ここで上り406列車(屋代7:29発)と交換。406列車も1本前の上りと同様、立客が1両に10人程度いたので、80人程度は乗っているだろう。

 8:04 若穂で4人乗車、2人降車。
 8:06 信濃川田で9人乗車、2人降車。
 8:09 大室で4人乗車。この時点で乗客数は36人、2両編成のうち先頭車はほぼ席が埋まった。ということは、さっき見た上りも1両に40数人が乗っていたとみていいだろう。

 8:12 金井山で4人乗車。
 松代8:17着。ここは有人駅(委託)なので全部のドアが開く。高校生をはじめ半分以上はここで降りた。

 8:24着の上り列車と交換するためしばらく停まる。当駅から乗ってくる人もちらほらいて、新たに7人乗車。上りはこちらの松代到着時と同じくらいかやや多い客を乗せ、少し遅れて到着。
 松代発車時の乗客数は23人。

 8:27 象山口で1人乗車。関係ないけど「佐久間象山」を「さくまぞうざん」と読む人はほぼ確実に長野県民ですね。
 8:31 岩野は乗降なし。
 8:34 雨宮で1人乗車。
 8:36 東屋代で15人降車。東屋代は屋代高校の最寄駅なので、降りたのはほとんど高校生。屋代高校は生徒852人中約40人が屋代線を利用しているという*3しなの鉄道には「屋代高校前」駅があるので、屋代線沿線に住んでいるのでなければしな鉄を利用するのが普通だろう。
 8:39屋代着。到着時の乗客数は9人でした。

 定期券利用者(整理券を取らなかった人)は見たところ8割程度。雨なので普段なら自転車を利用する人も電車を使ったのでしょう。
 ちなみに松代の住民協議会が行った松代高校生へのアンケートでは、屋代線を「利用しない」理由のトップは「自転車のほうが便利」だったそうです*4。松代高校は駅から離れているとはいえ(公式サイトによると駅徒歩20分)ちょっと辛い。
 ただ、平地を走る短距離の路線で、駅から学校がやや離れているところでは同じようなケースは割と見られるようで、他の某地方私鉄でも「新入生が通学に慣れてくると家から自転車で通うようになって、2学期から定期の売上が落ちるんだよね」という話を聞いたことがあります。
 ただ屋代線の場合、松代8:17着の電車では学校に着くのは始業時間ギリギリになりそうな感じですし、1本前だと7:34着で早すぎです。東屋代(屋代高校最寄駅)も同様です。駅からの距離なども要因でしょうが、ダイヤにも問題があるんじゃないでしょうか。

  • 2月某日、夕方上り〜屋代18:28発424列車に乗る〜

 屋代には18:21、しな鉄の下り軽井沢行きで到着。夕ラッシュ時だけあって、こちらは6両編成で立客も多い。が、屋代線への乗換客は自分以外に1人だけ。
 2両編成の屋代線車内には自分以外に10人の客がいた。客層はネクタイ姿など、30〜50台後半と思われる中高年層の男女、あとは大学生くらいの年代の若い兄ちゃん。全員が携帯やPSPをいじっていて、鉄は見当たらない。客は増えないまま定刻に発車。

 18:30 東屋代で4人乗車。うち3人は高校生風なので屋代高校だろう。
 18:32 雨宮で1人降車。
 18:35 岩野で1人降車。
 18:39 象山口は乗降なし。

 中間駅で唯一の有人(委託)駅かつ交換駅の松代着、ここで3人が降車、11人が乗車。大半は松代高校の生徒。対向列車の客は10人程度。18:43発車。発車時点での乗客は自分以外に20人。

 18:47 金井山で4人降車(3人は松代から)。1人乗車。
 18:50 大室で1人乗車。お水っぽい女性、これから権堂にご出勤?
 18:53 信濃川田で2人降車(松代からの客)。
 18:55 若穂は乗降なし。
 18:58 綿内で2人降車(松代からの客)、2人乗車。
 19:01 井上で2人降車(1人は松代から)、1人乗車。
 19:06須坂着。到着時点での乗客は15人。ちゃんと見てませんでしたが、大半は別方面への乗り換えではなく、須坂で降りたようでした。

  • これで傾向見える? 

 まあこの程度のことで何が分かるわけでもないですが、無理やり傾向を見て取ろうとすれば、次のようなことは言えなくもないでしょう。
 1:屋代線内で「目的地」になっている駅は松代と東屋代
 2:最も目立つ利用は綿内−金井山間各駅〜松代間
 3:長野線からの乗り換えはあまりいない
 4:長野線への乗り換えはそこそこいるみたい?

 1:はそれぞれ松代高校、屋代高校の最寄駅なので、通学利用者が7割超という屋代線の利用実態を考えれば当然といえるでしょう。

 2、3、4は何を表しているかというと、「屋代線屋代線沿線住民のための乗り物」だということでしょう。つまり利用者の多くは屋代線内相互発着か屋代線内発長野線内着で、長野線内から屋代線内やしな鉄沿線を目的地にしている人は少ないのではないか、ということです。
 屋代線問題の話で必ず出てくるのは沿線の高校への通学利用者のことですが、実は屋代線沿線から沿線外への通勤・通学利用者というのも(朝の上り列車の混雑を見る限り)もう少し考慮されていいのではないかと思います。
 私は屋代線に乗りに行くときはだいたい松代まで路線バスで行くのですが(バス停が近所なんで)、この様子を見る限り屋代線沿線から松代へ出てバスで長野へ向かう、という利用はほとんどなさそうに思えます。乗り継ぎが考慮されていないことと、金井山と松代以外なら運賃的メリットもないので(金井山〜長野間を屋代線・長野線経由で行った場合は880円、松代からバスだと電車180円+バス600円=780円で100円安くなるが、大室では830円・840円と逆転。松代以南ならしな鉄経由のほうが安い)、これは頷けます。


 前回「屋代線はもともと需要が少ないルート」と書きましたが、少なくとも朝方はバス1台には乗りきれない程度の需要は確実にあるわけで、ダイヤの悪さや他の交通機関との連携の悪さが利用者減少を招いている感は否めません。現在のダイヤがどの程度需要予測や利用者のデータに基づいて編成されているのか、が気になりました。

*1:信濃毎日新聞2011年2月4日付北信版33面

*2:信濃毎日新聞2010年9月9日付北信版26面

*3:信濃毎日新聞2011年2月4日付北信版33面

*4:信濃毎日新聞2010年9月9日付北信版26面

これからの屋代線の話をしよう。〜vol.1:これまでの屋代線の話をしよう〜

 利用者の減少で経営が悪化していると伝えられてきた長野電鉄屋代線。2月2日、同線のあり方について検討を続けてきた同電鉄と沿線3市による協議会は「廃線・バス転換」の結論を下しました。
 私は長野県に住んで8年、長野市民になってからは僅か5年ですが、やっぱり「地元」を走る路線の廃止は非常に残念です。ただ「すぐ乗りにいけるローカル線」として度々乗りに行っていた身(沿線ではないので日常的には乗れない)からすると、あの利用客の少なさや流動と合っていないルートではやむを得ないかなとも思います。同時に、乗客減が進む中で不便なまま放置されつづけていたという印象も拭えません。

 というわけで、屋代線廃線に至るこれまでの経過や現状、今後を数回にわたってちょいと考えてみたいと思います。

 長野県須坂市長野電鉄長野線・須坂駅から千曲市しなの鉄道屋代駅までを結ぶ24.4kmの単線電化路線。両駅間に11駅がある。長野電鉄ではもっとも歴史の古い路線で、1922(大正11)年、長野電鉄の前身、河東鉄道によって開業。以来、須坂〜信州中野〜木島間を含め「河東線」が正式名称だったが、通称「屋代線」と呼ばれていた。62(昭和37)年〜82(昭和57)年には上野から湯田中直通の国鉄急行「志賀」などの乗り入れルートにもなった。
 2002(平成14)年の信州中野〜木島間(木島線)廃止により路線名称が改められ、須坂〜屋代間は「屋代線」が正式名称となった。
 利用者数の減少により、09(平成21)年2月に長野電鉄は沿線の長野・須坂・千曲市や県に対し、存続に向け支援を要請。5月には「長野電鉄活性化協議会」が発足し、10(平成22)年7〜9月には終電延長や増便などの実証実験を実施。11(平成23)年2月2日の協議会で廃線バス転換の方針を決定した。

  • 実はもともと利用者はそんなに多くなかった

 屋代線の利用者数のピークは1965(昭和40)年度の330万2000人でした。それが約40年後、乗客減により活性化協議会が発足した2009(平成21)年度には、年間輸送人員は46万人まで減少しています。

 最盛期の330万人とはどのくらいの数字でしょうか。自分みたいな算数ダメな人は桁数が多いと分かりにくいので、単純に割って電車1本あたりどの程度の人数なのかを考えてみます。330万人は単純に365で割って1日当たりにしてみると9046人とちょっと。例えば朝6時発から夜23時発まで、30分ヘッドで35往復の電車が走ったとすれば1本当たりの乗客数は約130人です。いま屋代線を走っている3500系の1両の定員は120人で、うち座席定員は48人なので、2両編成なら座席が全部埋まって立客が1両に12人ずついるという感じです。3両編成なら全員座れますね。もっとも、実際のピーク時の本数は20往復だったようですので、朝夕は立客が大勢出たでしょう。

 現在の地方私鉄で年間輸送人員が同じくらいのところを探してみます。手元にある国交省鉄道局監修の「数字でみる鉄道」2009年度版を見てみると、ちょうどいい数字のところはありませんが、路線長がほぼ同じ(26.6km)の富士急行が303万2000人、福井県えちぜん鉄道が307万1000人です。

 要するに、決して少ないとはいえないまでも、最盛期でも利用者はそれほど多くなかったのです。

 次に現在の数字を見てみます。09年度の年間輸送人員を、先ほどと同じ仮定で電車1本あたりにしてみると、なんと18人。要は40年前の車内で座っていた人はみんなどっかに消えてしまったということですね。ちなみに実際の本数(15往復)で計算してみると、1本あたり約42人です。座席が全部埋まるかどうか、というところです。

 こちらも同規模の地方私鉄を探してみると、鳥取県若桜鉄道が45万5000人でほぼ同じくらいです。若桜鉄道は厳しい経営状況が伝えられる三セクで、状況打開のため日本初の公有上下分離を採用するなど、様々な経営努力で鉄路を守ろうとしている路線です。これよりも輸送人員が少ない民鉄を挙げてみると、津軽鉄道由利高原鉄道秋田内陸縦貫鉄道東海交通事業城北線)、明知鉄道紀州鉄道北条鉄道阿佐海岸鉄道南阿蘇鉄道の9路線。津軽鉄道東海交通事業紀州鉄道を除けば国鉄転換か未成線引継ぎの三セク、つまり廃線問題が起きて存続を選んだ路線です。

 輸送密度で見ると、厳しさがより浮き彫りになります。08年度の輸送密度は451。これを下回るのは秋田内陸縦貫鉄道紀州鉄道阿佐海岸鉄道の3社のみです。

 こうしてみると、屋代線は全国の地方私鉄路線の中でもかなり厳しい部類に入っているといえるでしょう。

 では、いつからこうなったのでしょうか?

 屋代線の乗客減少については「オリンピックで道路整備が…」「長野新幹線の開業で…」という意見がネット上でちらほら見られます。また、近年になって人の流れが長野中心部に向かい、動線からずれてしまったのでは、という見方もあります。しかし、沿線の歴史を見るともともと人の流れには決して沿っておらず、長野オリンピックの頃にはすでに「詰んでいた」のではないかと思えます。

 屋代線のそもそもの建設目的は旅客より貨物輸送がメインだったといえるでしょう。「千曲川の東側、河東地区にある松代、須坂は製糸業が盛んであったが、信越線の恩恵が受けられない事から、信越河東鉄道期成同盟会が結成され…」というのが、長電の前身である河東鉄道設立の経緯とされています。開通後の主要な貨物は生糸、硫黄、繭、石炭だったそうです。

 では人の流れはどうだったのか。沿線で最大の街は松代ですが、この街に最初に登場した公共交通は屋代線ではなく、バスです。鉄道開業に先立つ1918(大正7)年12月には、松代〜篠ノ井青木島(川を挟んで長野市中心部の対岸)までのバス路線が開業しています。青木島へのバスは橋の完成後、1929(昭和4)年9月には長野大門町まで開通しています。

 須坂はどうかというと、河東鉄道開業から4年後の1926(大正15)年6月には、河東鉄道社長でもある神津藤平氏が社長を務める長野電気鉄道が須坂〜権堂(長野の繁華街)間を開業しています。両社は同年に合併して「長野電鉄」となり、実際の運行は路線名とは別に、長野〜須坂〜信州中野間がメインとなっていきます。

 信越線経由の貨物輸送を主眼とした河東鉄道に対し、「人しか運べない乗り物」のバスが目的地としたのは屋代でも須坂でもなく篠ノ井、長野方面だったことや、須坂から長野中心部への直通路線が開業後、あっさりとそちらがメインルートになっていったことを考えると、当時から「人の流れ」は長野方面を目指していたことを示しているのではないでしょうか。

 主役は長野線に移ったとはいえ、戦後の高度成長期には屋代線も活況を呈していたのは先述の通りです。しかし、長電全体のピーク時の1966(昭和41)年度には2021万9000人だった年間輸送人員は、10年後の1976(昭和51)年度には1569万4000人まで減少。松代〜長野間ではライバル?といえる川中島バスも、ピークの1964(昭和39)年を境に68(昭和43)年には赤字に転落し、路線の休廃止を開始、70(昭和45)年度には国の補助金が交付されるようになります。

 近年の長電の衰勢について非常によく調べられたこのページには、「鉄道ジャーナル」誌1978(昭和53)年8月号に掲載された小林宇一郎氏(当時の長電の偉い人)執筆という記事の抜粋がありますが、その中では屋代線について

「いまや、上野−湯田中間直通急行と貨物列車のために存在するといってもよいくらいの通勤通学線である」

 と書かれています。
 その貨物輸送は記事の書かれた翌年、1979(昭和54)年4月に廃止され、もう一つの柱だった上野−湯田中間直通急行も、1982(昭和57)年に廃止されています。

 もともと人の動きとはややずれたルートだった屋代線は、1970年代後半には、すでに厳しい状況に差し掛かっていたのはほぼ確実でしょう。

  • 20年前には悲鳴をあげているべきだった

 「国鉄」の末期には数多くの路線が廃止されましたが、1981(昭和56)年に行われた「特定地方交通線」第1次申請の基準の一つは「営業キロ30km未満で輸送密度2000人未満」です。恐らく、屋代線は当時すでにこの基準に該当するか、あるいはかなり近かったのではないでしょうか。現在データとして手元で見られる屋代線の輸送密度で最も古いのが2005(平成17)年度の463ですが、もし年5%ずつ下落していたと仮定しても、1991(平成3)年度には1000を割っている計算になります。
 また、先に挙げた現在の屋代線と年間輸送人員がほぼ同じか下回っている三セク路線のほとんどは「第1次申請」で廃止候補とされた路線です。

 よって、屋代線は「国鉄線」だったか、あるいは別の私鉄であれば、80年代後半にはすでに存続問題が取り沙汰される路線だった、といえるのではないでしょうか。

 長野電鉄は地元では有力な企業の一つです。朝夕の長野線は今日も大勢の通勤通学客で賑わっています。それゆえに屋代線単体では経営が困難でもカバーしてこれたのだろうし、地域輸送を支えるというプライドもあったのでしょう。しかし、長野線の旅客数も年々減少しています。ここに来て長電が「もう単独では無理」と声を上げたのは、「屋代線の旅客数が減ったから」というよりは「全体の旅客数が減っていてもう支えきれない」が正解でしょう。

 自力でここまで持ちこたえてしまったが故に、先細りが確実な地域輸送だけではなく観光に活路を見出すといった、他の同規模の三セクや民鉄で採られたような施策にも出れなかった。それが屋代線の現状を招いたのではないか。まだ体力のあったであろう20年程度前、例えばワンマン化が行われた1993(平成5)年ころに、他の地方私鉄や国鉄ローカル線と同様「そろそろヤバいです」と声を上げ、地域全体を巻き込んだ協力体制づくりが進んでいれば運命は違ったのではないか…。衰退はここ最近のことではなく、だいぶ前から始まっていた。これが率直な感想です。



 「過ぎたことを言っても仕方ない」「今どうするかを考えるべき」という意見も多いでしょうし、その通りだと思います。でも、屋代線がどういう路線で、そもそもどの程度利用されていたかという経緯についての考察があまり見られない気がします。というわけで、簡単ではありますが屋代線の過去と現状を調べてみました。
 私が「今後どうすればいいと思っているか」については、最終回に結論として書こうと思います。


 次回は実際に朝夕の通学時間帯を見てきたレポートをお送りします。
(*今回の参考文献リストは後ほど)

中国の高速列車、CRH380Aに乗りました

 大変ご無沙汰しております。なんと半年以上ぶりだ。

 1月中旬に中国に行きまして、上海−杭州高速鉄道に乗ってまいりました。その際のレポートを暫定オープンの新サイトで公開しております。
 最前席に乗ったので、355km/hで走行中の運転席の様子も撮ってきました。その辺も公開してますので、まあよかったらご覧ください。

 というわけで、上記のサイトを近々本格始動したいと思います。各国の鉄道ニュースや高速鉄道・都市鉄道の情報やら研究中心の割と硬派なサイトにしようと思っているので、ユルい内容は今後もこっちに書くでしょう。すでにいくつか乗車レポートは書いてあるんですけど(台湾のタロコ号、マレーシアのETS、中国の京津高速鉄路etc.)掲載できるように編集しないとなあ。

 そんなわけで、今後ともよろしくお願いします。

2010年前半の活動

 大変ご無沙汰しております。こんなに更新しなかったのは初めてだ。いかんいかん、というわけで上半期の活動報告。忙しいから更新しない、とかって言い訳ですよね。そりゃまあ1日平均最低12時間労働で非週休2日は疲れるけど、それでもやる人はやるし。

  • 台湾鉄路夜行と客車と新型振り子電車の旅

 1月上旬。6日取れるはずだった冬休みが例によって3+3の分割編成になってしまったので、前半の休みの日程が判明した12月末に速攻でチャイナエアラインの格安券ゲット!念願の旧型客車列車、普快200次に乗ってきました。


 14系じゃないですよ!台鉄の数少ない夜行、莒光63次(台東行き)の車内です。
 普快200次は台東6:58発と朝早いのでちょっと乗るのが大変です。台東に泊まれば一番いいんでしょうが、台東ってなかなか遠い。今回は台北に着いたのが夜だったので、台北から夜行の莒光63次で台東に行くことに。しかしほんと14系とかかつての大垣夜行グリーン車を思い出す車内だなあ。



 莒光63次は台東に6:00着。1月ということもあってまだ真っ暗ですが、気温22度はさすが南国。現在の台東駅はかなり街外れにあるという新駅なので、周りはほんとに何もないです。でも夜行で着いた朝っていうのはやっぱりいいな。



 かつては西部幹線の特急「光華号」に使われた東急車輛製の名車、DR2700。ステンレス車ですが、1966年登場だからもう40年以上走っているわけで、台鉄の車両でも最古参の部類です。旧型客車もそうですが、コイツもこの時間帯の花東線じゃないと見られないので貴重。しかし片側1ドアの車両を通勤時間帯に使うってどうなのか。まあ混まないからいいのか…。



 コレだ!台鉄の旧型客車。これに乗りたかったんです。手前の2扉近郊タイプはインド製、奥のデッキ付きは日本製。車窓は特に台東に近いほうは日本とほとんど変わらないような田園風景で、国鉄時代の旧客を知らない私はああきっとこんな感じだったんだろうな…と思いながら、ガラガラの客車でのんびり約4時間の旅でした。



 車内。車窓から柔らかな陽射し。時間がゆっくり流れていく。



 台湾鉄道好きには有名な花東線池上駅の駅弁。ホームの立ち売りのおじさんからあっさり買えたのですが、twitterで買いに行った方のつぶやきを見てたら、どうやら優等列車しかホームの立ち売りはないとか…。普快200次はちょうど対向の自強号と交換するので、そのためかもしれません。具沢山で美味いよ。

 花東線は2015年を目処に電化工事が進んでいて、すでにあちこちに架線柱が建てられています。旧型客車やディーゼルカーも恐らくそれまでの命でしょう。早めにまた行きたいところです。次はDR2700にも乗らなくては。



 花蓮からは日立製の新型振り子電車「タロコ号」ことTEMU1000形の自強号で台北へ。速いっす。スペック的には加速度は2.2km/h/sだからそんなでもないと思うのだけど、加速の良さが印象的。
 コイツについては新サイト(準備中)で乗車記を載せる予定です。



 「成城学園前成城学園前です。3番線には多摩急行我孫子行きが…」ウソです。でも台北捷運(MRT)の電車って帯の色も太さも小田急っぽい。

  • タイ39時間の旅

 冬休み残りの3日間はタイへ。休みが細切れにされたって俺はあきらめないんだぜ?行ってやるんだぜ?というわけで再びチャイナエアラインの格安券をゲット。これで私が人生で一番多く乗っている飛行機はCIになってしまいました。うーむ。まあいいんだけど。

 

 タイに行ったら絶対乗りたかったのがメークローン線。バンコクのウォンウィアンヤイ駅から出る近郊路線です。ホームはこの通り食べ物の露店や日用雑貨屋や屋台や売店やなんやかんやが並び、なんとカラオケ屋まで。衣食住からエンターテインメントまで全てがホーム上で揃うまさにワンストップサービス。しかもみんな線路を平気で横断しているので駅外の商店街ともシームレスに結合し沿線商業施設との有機的な連携が地域経済とのシナジー効果をもたらしますって感じです。これぞリアル駅ナカ。どうだJR東日本まいったか!(笑)



 イヌも散歩するウォンウィアンヤイ駅ナカ。ワンワン。



 この路線で活躍するのは日本車両東急車輛製のステンレス製両開き2扉のディーゼルカーNKF形。窓は1段下降、座席はFRP製ですが、製造時期が近い(1985〜)ということもあって車内の雰囲気はキハ47にかなり似た感じです。乗った列車は全車非冷房2等の4連でしたが、一部に冷房車を組み込んだ編成があります。



 マハーチャイ駅。夕暮れの市場、列車を降りて家路を急ぐ人々、その中でふと自分はここに居場所を持たない旅行者なんだなってことを思う。旅の夕暮れの微妙な心細さが好き。こういう風景に出会えるから旅はいいなって思う。



 バンコク・ホアランポーン駅。やっぱりドーム型の駅はいいですね。ちなみに駅前の集成旅社(station hotel)ってとこに泊まりました。ボロいけど安いしエアコンもある。最終日は朝8時発のフライトだったので、駅前で屋台のおっさんと朝まで酒盛り。

  • 久しぶりに叡電に乗る

 4月の週末、なんだか急に夜行に乗りたくなったので「きたぐに」で大阪へ。久しぶりに叡電に乗ってきました。


 新緑の貴船は美しかったことよ。実は「きらら」に初めて乗りました。いい電車ですねコレ。


 ブログって記事がどんどん流れて行っちゃうのがちょっと嫌だなというのが更新が停まってる一つの理由でして、そんなわけで新サイトを計画しています。今までに調べた車両の紹介とか、各国の高速鉄道計画とかも書いていきたいなと。各国車両紹介やタロコ号、スリランカの乗車記とかを準備中。7月までにはオープン予定、誰も期待してないだろうけど乞うご期待!

スリランカのICE

ICEといえばドイツの高速列車としてお馴染みですが、実はスリランカにもありました。まあ「InterCity Express」って列車名はよく考えてみれば別にどこの国にあってもおかしくないですね。
スリランカのICEはドイツのような高速列車編成ではなく、ディーゼル機牽引の客車列車。私が乗ったのはキャンディ〜コロンボ間の列車で、この間約110kmを約2時間半で走ります。ということは表定速度は約45km/h。JRの特急なら「はやとの風」がこのぐらいでしたね。はっきり言って特急としては遅いのですが、車窓風景は素堀りのトンネルに岩山の切り通し、南国らしい草木の生い茂るジャングルの中を貫く線路…と、乗っていて飽きません。
走りっぷりは景観とは対象的にまさに「淡々と」というのがぴったりで、特に直線だからといってスピードを上げたり、カーブの続く山岳区間だからといって徐行したりすることもなく、じわりじわりとペースを崩さずに進んでいきます。線路状態は決してよいとは言えず、台車はシュリーレンのような円筒案内式のなかなか性能良さそうなのを履いているのですが、ジョイントでは派手にバウンドしながら走ります。
ただ、単線区間の途中駅は基本的に一線スルー化されているのはさすが幹線、立派です。マイペースな走りながらも到着はほぼ定時で「着実に走り続ければちゃんとたどり着く」という、なんだか人生の教訓的なものをちょっと感じたりもします。

というわけで動画。9分以上あるので暇なときにどうぞ。