これからの屋代線の話をしよう。〜vol.1:これまでの屋代線の話をしよう〜

 利用者の減少で経営が悪化していると伝えられてきた長野電鉄屋代線。2月2日、同線のあり方について検討を続けてきた同電鉄と沿線3市による協議会は「廃線・バス転換」の結論を下しました。
 私は長野県に住んで8年、長野市民になってからは僅か5年ですが、やっぱり「地元」を走る路線の廃止は非常に残念です。ただ「すぐ乗りにいけるローカル線」として度々乗りに行っていた身(沿線ではないので日常的には乗れない)からすると、あの利用客の少なさや流動と合っていないルートではやむを得ないかなとも思います。同時に、乗客減が進む中で不便なまま放置されつづけていたという印象も拭えません。

 というわけで、屋代線廃線に至るこれまでの経過や現状、今後を数回にわたってちょいと考えてみたいと思います。

 長野県須坂市長野電鉄長野線・須坂駅から千曲市しなの鉄道屋代駅までを結ぶ24.4kmの単線電化路線。両駅間に11駅がある。長野電鉄ではもっとも歴史の古い路線で、1922(大正11)年、長野電鉄の前身、河東鉄道によって開業。以来、須坂〜信州中野〜木島間を含め「河東線」が正式名称だったが、通称「屋代線」と呼ばれていた。62(昭和37)年〜82(昭和57)年には上野から湯田中直通の国鉄急行「志賀」などの乗り入れルートにもなった。
 2002(平成14)年の信州中野〜木島間(木島線)廃止により路線名称が改められ、須坂〜屋代間は「屋代線」が正式名称となった。
 利用者数の減少により、09(平成21)年2月に長野電鉄は沿線の長野・須坂・千曲市や県に対し、存続に向け支援を要請。5月には「長野電鉄活性化協議会」が発足し、10(平成22)年7〜9月には終電延長や増便などの実証実験を実施。11(平成23)年2月2日の協議会で廃線バス転換の方針を決定した。

  • 実はもともと利用者はそんなに多くなかった

 屋代線の利用者数のピークは1965(昭和40)年度の330万2000人でした。それが約40年後、乗客減により活性化協議会が発足した2009(平成21)年度には、年間輸送人員は46万人まで減少しています。

 最盛期の330万人とはどのくらいの数字でしょうか。自分みたいな算数ダメな人は桁数が多いと分かりにくいので、単純に割って電車1本あたりどの程度の人数なのかを考えてみます。330万人は単純に365で割って1日当たりにしてみると9046人とちょっと。例えば朝6時発から夜23時発まで、30分ヘッドで35往復の電車が走ったとすれば1本当たりの乗客数は約130人です。いま屋代線を走っている3500系の1両の定員は120人で、うち座席定員は48人なので、2両編成なら座席が全部埋まって立客が1両に12人ずついるという感じです。3両編成なら全員座れますね。もっとも、実際のピーク時の本数は20往復だったようですので、朝夕は立客が大勢出たでしょう。

 現在の地方私鉄で年間輸送人員が同じくらいのところを探してみます。手元にある国交省鉄道局監修の「数字でみる鉄道」2009年度版を見てみると、ちょうどいい数字のところはありませんが、路線長がほぼ同じ(26.6km)の富士急行が303万2000人、福井県えちぜん鉄道が307万1000人です。

 要するに、決して少ないとはいえないまでも、最盛期でも利用者はそれほど多くなかったのです。

 次に現在の数字を見てみます。09年度の年間輸送人員を、先ほどと同じ仮定で電車1本あたりにしてみると、なんと18人。要は40年前の車内で座っていた人はみんなどっかに消えてしまったということですね。ちなみに実際の本数(15往復)で計算してみると、1本あたり約42人です。座席が全部埋まるかどうか、というところです。

 こちらも同規模の地方私鉄を探してみると、鳥取県若桜鉄道が45万5000人でほぼ同じくらいです。若桜鉄道は厳しい経営状況が伝えられる三セクで、状況打開のため日本初の公有上下分離を採用するなど、様々な経営努力で鉄路を守ろうとしている路線です。これよりも輸送人員が少ない民鉄を挙げてみると、津軽鉄道由利高原鉄道秋田内陸縦貫鉄道東海交通事業城北線)、明知鉄道紀州鉄道北条鉄道阿佐海岸鉄道南阿蘇鉄道の9路線。津軽鉄道東海交通事業紀州鉄道を除けば国鉄転換か未成線引継ぎの三セク、つまり廃線問題が起きて存続を選んだ路線です。

 輸送密度で見ると、厳しさがより浮き彫りになります。08年度の輸送密度は451。これを下回るのは秋田内陸縦貫鉄道紀州鉄道阿佐海岸鉄道の3社のみです。

 こうしてみると、屋代線は全国の地方私鉄路線の中でもかなり厳しい部類に入っているといえるでしょう。

 では、いつからこうなったのでしょうか?

 屋代線の乗客減少については「オリンピックで道路整備が…」「長野新幹線の開業で…」という意見がネット上でちらほら見られます。また、近年になって人の流れが長野中心部に向かい、動線からずれてしまったのでは、という見方もあります。しかし、沿線の歴史を見るともともと人の流れには決して沿っておらず、長野オリンピックの頃にはすでに「詰んでいた」のではないかと思えます。

 屋代線のそもそもの建設目的は旅客より貨物輸送がメインだったといえるでしょう。「千曲川の東側、河東地区にある松代、須坂は製糸業が盛んであったが、信越線の恩恵が受けられない事から、信越河東鉄道期成同盟会が結成され…」というのが、長電の前身である河東鉄道設立の経緯とされています。開通後の主要な貨物は生糸、硫黄、繭、石炭だったそうです。

 では人の流れはどうだったのか。沿線で最大の街は松代ですが、この街に最初に登場した公共交通は屋代線ではなく、バスです。鉄道開業に先立つ1918(大正7)年12月には、松代〜篠ノ井青木島(川を挟んで長野市中心部の対岸)までのバス路線が開業しています。青木島へのバスは橋の完成後、1929(昭和4)年9月には長野大門町まで開通しています。

 須坂はどうかというと、河東鉄道開業から4年後の1926(大正15)年6月には、河東鉄道社長でもある神津藤平氏が社長を務める長野電気鉄道が須坂〜権堂(長野の繁華街)間を開業しています。両社は同年に合併して「長野電鉄」となり、実際の運行は路線名とは別に、長野〜須坂〜信州中野間がメインとなっていきます。

 信越線経由の貨物輸送を主眼とした河東鉄道に対し、「人しか運べない乗り物」のバスが目的地としたのは屋代でも須坂でもなく篠ノ井、長野方面だったことや、須坂から長野中心部への直通路線が開業後、あっさりとそちらがメインルートになっていったことを考えると、当時から「人の流れ」は長野方面を目指していたことを示しているのではないでしょうか。

 主役は長野線に移ったとはいえ、戦後の高度成長期には屋代線も活況を呈していたのは先述の通りです。しかし、長電全体のピーク時の1966(昭和41)年度には2021万9000人だった年間輸送人員は、10年後の1976(昭和51)年度には1569万4000人まで減少。松代〜長野間ではライバル?といえる川中島バスも、ピークの1964(昭和39)年を境に68(昭和43)年には赤字に転落し、路線の休廃止を開始、70(昭和45)年度には国の補助金が交付されるようになります。

 近年の長電の衰勢について非常によく調べられたこのページには、「鉄道ジャーナル」誌1978(昭和53)年8月号に掲載された小林宇一郎氏(当時の長電の偉い人)執筆という記事の抜粋がありますが、その中では屋代線について

「いまや、上野−湯田中間直通急行と貨物列車のために存在するといってもよいくらいの通勤通学線である」

 と書かれています。
 その貨物輸送は記事の書かれた翌年、1979(昭和54)年4月に廃止され、もう一つの柱だった上野−湯田中間直通急行も、1982(昭和57)年に廃止されています。

 もともと人の動きとはややずれたルートだった屋代線は、1970年代後半には、すでに厳しい状況に差し掛かっていたのはほぼ確実でしょう。

  • 20年前には悲鳴をあげているべきだった

 「国鉄」の末期には数多くの路線が廃止されましたが、1981(昭和56)年に行われた「特定地方交通線」第1次申請の基準の一つは「営業キロ30km未満で輸送密度2000人未満」です。恐らく、屋代線は当時すでにこの基準に該当するか、あるいはかなり近かったのではないでしょうか。現在データとして手元で見られる屋代線の輸送密度で最も古いのが2005(平成17)年度の463ですが、もし年5%ずつ下落していたと仮定しても、1991(平成3)年度には1000を割っている計算になります。
 また、先に挙げた現在の屋代線と年間輸送人員がほぼ同じか下回っている三セク路線のほとんどは「第1次申請」で廃止候補とされた路線です。

 よって、屋代線は「国鉄線」だったか、あるいは別の私鉄であれば、80年代後半にはすでに存続問題が取り沙汰される路線だった、といえるのではないでしょうか。

 長野電鉄は地元では有力な企業の一つです。朝夕の長野線は今日も大勢の通勤通学客で賑わっています。それゆえに屋代線単体では経営が困難でもカバーしてこれたのだろうし、地域輸送を支えるというプライドもあったのでしょう。しかし、長野線の旅客数も年々減少しています。ここに来て長電が「もう単独では無理」と声を上げたのは、「屋代線の旅客数が減ったから」というよりは「全体の旅客数が減っていてもう支えきれない」が正解でしょう。

 自力でここまで持ちこたえてしまったが故に、先細りが確実な地域輸送だけではなく観光に活路を見出すといった、他の同規模の三セクや民鉄で採られたような施策にも出れなかった。それが屋代線の現状を招いたのではないか。まだ体力のあったであろう20年程度前、例えばワンマン化が行われた1993(平成5)年ころに、他の地方私鉄や国鉄ローカル線と同様「そろそろヤバいです」と声を上げ、地域全体を巻き込んだ協力体制づくりが進んでいれば運命は違ったのではないか…。衰退はここ最近のことではなく、だいぶ前から始まっていた。これが率直な感想です。



 「過ぎたことを言っても仕方ない」「今どうするかを考えるべき」という意見も多いでしょうし、その通りだと思います。でも、屋代線がどういう路線で、そもそもどの程度利用されていたかという経緯についての考察があまり見られない気がします。というわけで、簡単ではありますが屋代線の過去と現状を調べてみました。
 私が「今後どうすればいいと思っているか」については、最終回に結論として書こうと思います。


 次回は実際に朝夕の通学時間帯を見てきたレポートをお送りします。
(*今回の参考文献リストは後ほど)